
幼少期
私は大田区の大森に生まれました。父が開業医をしていたため、父の背中を見ながら育つことで自然と医師を目指しました。父はきれいな白髪が印象的な人でした。自分の髪も父のように白くなってきたと感じています。
Greetings from the director

私は大田区の大森に生まれました。父が開業医をしていたため、父の背中を見ながら育つことで自然と医師を目指しました。父はきれいな白髪が印象的な人でした。自分の髪も父のように白くなってきたと感じています。

大学入学後、私はアメリカンフットボール部に入部しました。新入生の中でも特に厳しく指導を受け、シーズン中は休みなく毎日の練習に打ち込みました。その結果、1年生の夏までに体重は入学時から10kg減少するほどでした。
厳しい練習や試合を経験する中で、仲間を信頼し、一つの目標に向かって力を合わせることの大切さを学びました。また、苦しい状況でも最後まで諦めない精神力を身につけることができました。4年生ではキャプテンを務め、チームを率いる経験を通じてリーダーシップも養われました。
学年が進むにつれて臨床医学を学ぶ機会が増え、自然と勉学にも力を入れるようになりました。特に5年生後半から医師国家試験前までの約1年間は、同級生と大学内の一室を借り、睡眠時間を1日6時間と決めて、それ以外の時間をほぼ勉強に費やしました。その時にともに努力した仲間たちとは、現在も深い絆で結ばれています。
臨床実習を経験した頃は、漠然と内科か外科に進みたいと考えていました。しかし、さまざまな診療科を学ぶ中で次第に外科への思いが強くなり、6年生の頃には外科医になることを決意していました。
6年生は夏休み明けから試験が続き、秋には卒業試験を控えていました。しかし、アメリカンフットボール部には引退がなく、勉強の合間にも筋トレを続け、6年生の秋まで試合に出場していました。このような生活を送る部活動は、当時ほかにはほとんどありませんでした。それでも仲間とともに努力を重ねた結果、医師国家試験に合格し、念願であった医師としての第一歩を踏み出すことができました。
大学時代のアメリカンフットボールと医学の学びを通じて、仲間との協力、目標に向かって努力を継続する姿勢、そして困難に立ち向かう精神力を培うことができました。これらの経験は、現在の医師としての礎となっています。
医師となり外科の道を選び、東邦大学大森病院 第二外科学講座の門をたたきました。研修医の時に、私にとって忘れることのできない出来事がありました。
父が胃がんとなり、手術を受ける事になりました。開腹手術で胃の2/3を切除する幽門側胃切除術と胆嚢摘出術という術式でした。私は、先に医師となった兄と父の治療方針を喫茶店で話していて、感情的になり涙が止まらなくなったことを覚えています。手術を執刀する先生から手術に参加する機会をいただき、自分の父のおなかの中を見ることになりました。全身麻酔で眠っている父の挿管チューブが入れられた顔を見た時は、こみ上げてくるものがありました。手術中に、指導医の先生の指導のもと、胆嚢摘出術を執刀させていただきました。はじめて胆嚢摘出術をしたのが父のものでした。そのときの指導していただいた先生には今でも感謝しています。
研修医が終ったあとに、今度は母が卵巣がんになりました。アメリカンフットボール部の先輩が婦人科にいて母を診てくれました。このときも先輩と一緒に母の手術に入ることになり、父に続いて母のおなかの中を見ることになりました。私は、家族としての不安や葛藤を抱えながら、そのときは一人の外科医として最善を尽くすことができました。その時、病気と向き合う患者本人だけでなく、それを支える家族もまた大きな不安の中にいることを深く実感しました。いろいろな縁があり自分の両親の手術に携わることができ、「医師になってよかった」「外科医になってよかった」と心から思えた瞬間でもありました。

研修医時代が終わり、さらに研鑽を積むことで様々な手術ができるようになってきました。その中で私は、低侵襲外科という分野に興味を持ちました。当時この分野で有名なUniversity of California, San Diego(UCSD)に約2年間、留学する機会があり、妻と子供と共にアメリカに渡りました。アメリカでは充実した留学生活を送ることができました。趣味のサーフィンやアメリカンフットボール観戦など趣味や旅行にも時間を費やすことができました。大学病院に勤務しているときは月に約8-10回の当直をしていましたので、当直もなく自由になる時間が増えて、家族と過ごす時間が増えました。それまでは全くやったことのない料理も妻から習い、いろいろな料理に挑戦しました。なかでもフレンチトーストは我が家の定番で私が定期的に作っています。
留学から帰国する頃に父に食道がんが見つかりました。兄が胃カメラを行い、がんを発見してくれました。抗がん剤を行いましたが、父は、ほどなくして亡くなりました。父を失ったときの喪失感は私の心に強く残りました。わたしの母は、歌が大好きで自宅で歌の会を開くほど活動的な人でした。しかし、晩年、母を前にして、私には今でも一つ心残りがあります。それは、弱っていく母の手を、もっと握ってあげれば良かったということです。その当時は、母に対する恥ずかしさや戸惑い、さまざまな感情が入り交じっていました。しかし、自分の母親だとどうしても患者さんに接するようにはできなかったのです。
「手当」という言葉があります。医師の手は、患者さんに触れ、そのぬくもりを通して安心や希望、勇気、さらには特別な力を届けることができるものだと私は信じています。今なら母の手を握り、素直に「ありがとう」「大丈夫だよ」と伝えることができるのでしょうか?そう自分に問いかけることがあります。しかし、もしかすると、今でも簡単にはできないかもしれません。それほど家族という存在は特別であり時には、難しいこともあるのだと思います。
父も母も、生前の希望どおり住み慣れた自宅で、家族に見守られながら人生の最後を迎えました。しかし、それは決して私たち家族だけの力だけでは成し遂げられませんでした。多くの方々の協力があってこそ実現できたことでした。そして、私は自宅で看取ることの難しさと尊さを知りました。そして病気を診るだけでなく、その人らしい人生やご家族の思いに寄りそう医療の大切さを深く実感しました。
それから月日は流れ、大学病院を離れ、板橋区の高島平中央総合病院へ勤務することになりました。父がしていた往診を思い起こし、その頃から本格的に訪問診療に携わるようになりました。それまで外科医として病気を治すことに全力で向き合ってきました。しかし、訪問診療の現場で出会った患者さんやご家族から、私はもう一つの大切な医療の役割を学びました。
それは、治療だけではなく、その方らしい人生やご家族と過ごすかけがえのない時間を支えるということです。
板橋区は私にとって思い出深い地域です。高島平中央総合病院では、多くの患者さんの手術に携わり外来でもたくさんの方々と出会いました。長い年月で築かれたご縁は、私にとってとても大切なものです。
だからこそ、この思い出深い板橋区、そして周辺地域の皆さまへ、心のこもった在宅医療を届けたいと考えています。患者さん一人ひとりの想いに耳を傾け、ご本人とご家族に寄り添いながら、「この先生に診てもらってよかった」と思っていただける存在でありたい。住み慣れた場所で、自分らしく生きること。そして、大切な人とともに過ごすこと。その願いを支えることが今の私の使命です。
地域の皆さまに信頼されるかかりつけ医として、誠実に診療に努めてまいります。
どうぞよろしくお願いいたします。
いたばし在宅クリニック 院長 片桐 敏雄